グランデ川と妙義山
この本(正確に言うとこの本の前の版)を読んでて、連合赤軍の手記を思い出した。もちろん、全然違うのだが、全然違うのはなぜだろう?と。「ほんの数十人で、人里離れた山々を転々として革命が成就できると思っていたのか?」という私の疑問は同じ。いくら崇高な理想があれど、適切なタイミングと適切な場所と適切な人数が揃わなければ、うまくは行くまい。それでもできると(当初それなりに)信じていたのはどちらも同じ。外部との接触が断たれ、周り皆敵なのも同じ。なのになぜ、連合赤軍は総括に走ったのに、ゲバラの部隊はそうならなかったのか?どうも、高校生の時に読んだ文革に関する本の印象が強く、過激左派といえば、総括、自己批判というイメージなのだが、南米では違うのだろうか? [1]というか、なぜ左派は自己批判やら総括にたどり着くのだろう?そういえば、本家本元ソ連ではどうだったのだっけ?昔読んだ記憶があるが、覚えていない。
もしかすると、リーダーの素質の違いかもしれないし(というか、これが一番な気がする)、周りの敵が自分たちを殺す意図があるか、ないか(ボリビア軍は殺す、日本の警察は殺さない)といった違いもあるかもしれない。共産主義本流(?)と枝分かれのセクトの違いかもしれないし、歴戦のゲリラ戦士といきがった学生の違いかもしれない。何れにしても、ウユニ塩湖より知名度の低いボリビア革命ゲリラの話、なかなか興味深かったです。なんでそんな本を読み始めたかですって?そんなの、オダギリジョーにつられて映画を観たからに決まっているじゃないですか。
References
| ↑1 | というか、なぜ左派は自己批判やら総括にたどり着くのだろう? |
|---|